手放しからのブレイクスルー
今年の夏頃に、公式ラインやインスタのアカウントをクローズ。
セッション関連も新規の受付を完全に停止。
色々と手放していました。
個人的には大きな手放しでしたし、
その先の展望が明確なわけでもありませんでした。
それらを決めると同じ時期にコンテストのファイナリスト選出が決まり、
目立つこと、自分をアピールすることが苦手だったわたしにとって、新たな世界の扉が開きました。
その挑戦によりブレイクスルーしたということは↓の記事でも書いておりましたが、
本番を終え、今まで知らなかった自分を知り、
その後、見えてきたのはとある思いでした。
動機はエゴだった
これまでは、誰かの役に立つことで自分の存在意義を確かめ続けていて、
反響があることでここにいてもいいんだ。と安堵することを繰り返していました。
ここについては自覚はしていました。
そして、「それって普通でしょ」って思われるかもしれません。
「何事も人の役に立ってこそでしょう」と。
だけど、その行動の奥にある動機に気づいていませんでした。
”ここにいてもいい”を確認するためのはたらき。
根っこにあったのは、
求められない役立たずな自分を見たくない。
という恐れであり、エゴ(我)でした。
(他にも芋づる式に出てきたものはありましたが…)
ここ数年いろんな自分が露呈しまくることが続いていて、
その都度、必要な気づきに変えていったつもりではありました。
しかし、「気づき」と「認める・受け入れる」は大きく違うということもわかりました。
そんな認めたくない自分を見る機会がコンテストを通じてあり、
それまでのことが次々と繋がっていったんです。
無自覚の緊張
自由奔放に生きる人を見ると心がぎゅっとなり、
周りを顧みない人に憤りを感じたり、
人気がある人を見るとわたしには価値がないと勝手に落胆していた。
実はそんなわたしがずーっと前からいました。
だけど、そんなこと考えても仕方ない。
むしろ、こんなこと思っているなんて知られたら大変だ!と、悟られないように心を閉ざし、取り繕い、人と接していたんです。
すべて無意識に。
そうやって無意識に自分を隠すことを続けていくとどうなったか…。
人と接するのに過緊張するようになったんです。
でも、無自覚なので過剰に緊張していることなんか気づいていません。
その状態で生きること数十年。
過緊張がスタンダードな自分の出来上がりです。
願いは叶っていた
自分で仕事をするようになり、その傾向は一層強まっていました。
なにせ自分が商品なわけですから。
役立てないといけないわけです。
=役立たない自分ではダメ
初めのうちはなんとかなりました。
むしろ数字的にはうまくいっていました。
ありがたいことに本当にたくさん方のご紹介や
後押しいただいたおかげで月に数百万以上を稼ぐこともありました。
だけど、ほっとできるのはひとりの時間。
その頃は単に「仕事しすぎなのかも」くらいに思っていました。
やっぱりバランスが大事だよねって。
結局、自然と人に関わることを避けるようになり、
オープンになれる人はごくわずか。
ほっとする反面、孤独を感じる日々。
当然、あっという間に仕事も激減。
数字的にはまさに転落でした。
(どうして生き延びているかも謎なくらい)
生活もあるし、うまくいっている自分でい続けなければいけない。と
なんとか足掻いていたものの、状況は特に変わることはありませんでした。
だけど、今になって分かるのは
無意識はこの状態を求めていたんだということ。
人と関係することに過緊張していたわたしは
知らぬ間に激しくエネルギーを消耗していて、
だから人から離れることを望んでいたんだと。
無意識の願いが叶っていたのでした。
これが、この3年ほどの出来事です。
ようやく見てきた
なんでこんなことをわざわざ書いているか、実のところわたしにも真意は分かりません。
だけど、ここ数年で感じていたことを総まとめしている感覚があります。
きっと仕上げの時期にきているのかもしれません。
ひとつのストーリーの完結に向かっているような感じでしょうか。
そんな急上昇と急降下を経たことで、錆びていた鎧は剥がれ落ち、
防御力ゼロの丸裸なわたしにようやく出会うことができました。
そうなって思うのは…
めちゃめちゃダサい。ってこと。笑
いままでのわたしダッサ〜!😂って感じです。
もちろんこれは良い意味で、
もはや何もない自分をそのまんま見るしかなく、
ようやく認められたんですよね。
わたし、”全然できる人じゃない”って。
抗って、しがみついて、取り繕って、見栄張って
でも結局なーんにもなくなっちゃって。
もしかしたら開き直りに近いかも知れないですが、
開いて直るのなら、それもいいかって。笑
それで、
できる風のわたしで愛されようとするのを
もうやめよう。と、思えました。
剥がれ落ち、そこにいたわたしは
なんともクリアなわたしでした。
緊張することなく、漂うように
ゆるふわで存在するわたし。
ああ、こんな風に生きたかったんだねって、
自分で自分に気付かされたんです。
そして、なんにもないわけでもなかった。
常にわたしは愛されていたし、護られていたってことも受け入れることができました。
誰も役立つわたしを強いていなかった。
とある思いとは
その剥がれ落ちた時期がコンテスト本番を終えたあとだったんですが
冒頭でも触れた”とある思い”とは、
もっと自分を発揮したい
というものでした。
これは新たに湧き上がったものではないですが
明らかにこれまでと発露が違っていて、
力むことなくゆるふわな私だからこそ
発揮できるものを届けたいって思うようになりました。
それってなんなの?
色々と振り返ったり、掘り下げたり、
根源にあるものを観察したりしてようやく言語化できたのが
クリアリングでした。
そしたら今まで見えにくかったビジョンに
輪郭が出始め、彩りが加わっていきました。
それと共に、セッション再開も決めました。
それがクリアリングセッションです。
今後は、人に対してだけではなく
場所や空間のクリアリングもやってきます。
現在検証中なのですが、なかなか面白いことになりそうです。
また、覚醒プログラムも年内でオープン価格を終了し、価格改定に入ります。
どうぞこの機会にご検討くださいませ。
これ、本当にすごいんです。
ご質問やご相談も随時受付しております。
お気軽にお知らせください。
色々なものを手放し、露呈させ、
認め受け入れた結果、
別次元に移行したわたしと繋がってくださる方へ
どうか届きますように。
最後までご覧いただきありがとうございます。
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